ファイラスは剣に手を掛けていた。だが、グラヴァードには全く動じる様子がない。ファイラスを脅威とは認識していないからだ。
「言い訳?」
グラヴァードはゆっくりと首を振った。
「無用だ、そんなものは」
「なんだと」
「十万を救うために犠牲になった千人は、そもそもが十万人の生のために生きていたに過ぎない、ということだ」
「詭弁だ」
ファイラスは言い募る。だがグラヴァードは「詭弁?」と少し目を見開いた。
「なれば聖騎士。千を救うために十万を見捨てたほうが良かったと言うのか?」
「それは――」
「目先の、手の届くところの人間を救った結果、その百倍もの人間が死ぬことになったとしても、そこに明確な因果関係があったとしても。お前は千人を救って満足できる人間だとでも?」
グラヴァードはファイラスの方に一歩踏み出す。ファイラスはギリギリのところで後退を耐えた。
「それとも十万と千を、その全てを救う力を持たなかった俺を責めるとでも? それこそ詭弁ではないか、聖騎士」
「だが……!」
「生命に優劣はない。君たち聖職者たちの好きなその言葉が真実であるとするなら、より多くの生命を救うことこそが正義ではないのか。千と十万。どちらかだけを救えるというのなら、十万を救うのが正義なのではないか」
グラヴァードの青い瞳には表情はない。
「俺は神ではないのだ、聖騎士。しかし俺は、救えなかった千人の呪詛はすべて受けると覚悟した。君が俺と同じ力を持ち、同じ状況に遭遇したとしたら、果たしてどうしただろうか」
「だな」
イレムが短く言った。
「ファイラス、グラヴァードの言うことは間違えてはいねぇよ。俺だって同じ状況に陥ったら同じ判断をするだろうさ。それを責めるのは筋違いだ。まぁ、もっとも、グラヴァードの言葉が正しいかどうか検証する必要はあるがね」
「真実など見る人間によってどうとでも変わる、神帝」
グラヴァードは目を細める。人形のように、表情も感情もない。
「俺も俺の言葉が真実であるなどと吹聴するつもりはいささかもない。俺はただ、その時その時に於いて、最善の正義を実行してきたつもりだ。さもなくば、俺はこうして君たちの前に姿を見せてはいない」
「グラヴァードさん」
ケーナはようやく剣の刃を消した。柄も何処かへと消え去った。グラヴァードも剣を収め、ケーナの方に身体を向けた。イレムとファイラスには、半ば背中を向けているような形だ。
「もし……もし、私から魔剣を取り出したら」
「君は死ぬ」
グラヴァードはこれ以上なく端的に答えた。
「しかし、魔剣に取り込まれきっていない今なら、君の記憶は残る。聖騎士たちの中にな」
「ふざけるな」
ファイラスが前に出る。
「それだとケーナが死ぬことは大前提で、記憶から消えるか、消えないか。その二択だと――」
「その通りだ」
グラヴァードは訥々と応える。
「だが、この娘の本当の生命は、ニ年前の魔剣封印の儀式にて終わっているのだ。それからのニ年間、今に至るまで。この娘の、ケーナの人格は魔剣ウルによって作られたものに過ぎないのだ。ケーナの過去の記憶から作り出された、蜃気楼のようなものだ」
「しかし、ケーナは、ケーナだ」
ファイラスの声にはもはや力はなかった。イレムがその肩に手を置いて、グラヴァードに二歩、近付いた。
「ケーナが魔剣に取り込まれることを回避する術は?」
「ない。いずれその記憶情報すらすべての記憶から失われるだろう。聖騎士が、ニ年前の惨状を目にしていながら、今の今まで忘れていたことがその証拠だ」
「しかし、そんな」
「聖騎士ファイラス。君のその忸怩たる思いは十分に理解できる。俺は最悪を回避する術は知っている。その力もある。だが、そうだな、まだわずかに時間もある。考えて、答えを出せ」
グラヴァードはケーナを見て、わずかに微笑んだ。ケーナは唇を噛んでグラヴァードを見上げたが、頷くことも首を振ることもできなかった。
「このまま運命に従うも良し。自ら決め、抗おうとするも良し」
だが、と、グラヴァードは続ける。
「魔神ウルテラの復活は、幾万もの生命を奪うことになるだろう。俺はそれをみすみす見逃すことはできない。……覚えておくのだな」
グラヴァードはそう言うと、音もなく闇に消えた。
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