ファイラスはアルディエラム中央帝国の帝都から遠く離れた、神殿の一つもない小さな村で生まれた。治癒師としての能力が確認されたのは八歳の頃。火事で大火傷を負った友人をその力で救ったことが始まりだった。ファイラスはその後も次々と奇跡のような力を発揮した。その噂は瞬く間に帝都にも届いた。
「八歳で治癒師としての力が発現するのは極めて稀なことだ」
帝都からやってきた若い女性の騎士はゼドレカ伯爵だと名乗った。赤みがかった金髪を長く伸ばした、長身の女性だった。その鋭い目つきに、ファイラスを始め両親や村人たちは圧倒される。後に神帝師団の副団長となるゼドレカは、当時の時点で神帝師団のナンバー3だった。
「単刀直入に言おう。この子の力は無制御級。この村で終わって良い人材ではない」
「しかし、この子は」
母親が声を上げる。が、ゼドレカは右手を上げてそれを止める。
「すまんが、これは国策だ。治癒師は神殿預かりとなる。宗派は?」
「この村には神殿がありません」
高齢の村長が震える声で言った。ゼドレカは「ふむ」と頷いた。
「なれば、ヴラド・エール聖神殿へ行くことになる。あなたたちに拒否権はない」
「ぼ、僕は……」
ファイラスがゼドレカを見つめる。ゼドレカは金褐色の目で見つめ返す。
「もっと役に立てる治癒師になりたい」
「よく言った、少年」
ゼドレカは頷く。そして建物に持ち込んでいた大きな袋をテーブルの上に移動させた。
「子供を金で買うというのは気が引けるが、何にしても対価は必要だと私は考えている」
袋の中には大金が入っていた。村人全員が数年間遊んで暮らせるだけの金額だ。
「こ、こんなに……?」
村長の目の色が変わる。
「これはこの子への私個人の投資だと思ってもらって構わない。我が子と引き離される痛みは、子供のいない私にはわからないがね」
「ファイラスを金で売れと言うんですか」
父親が言う。ゼドレカはゆっくりと立ち上がった。甲冑が物騒な音を立てる。
「貰えるものは貰っておいたほうが良いと私は思うが。さもなくばただ失うだけだ」
「し、しかし、神帝師団様……!」
「少年、君は何か言うことはあるか」
「ゼドレカ様と一緒に行きたい」
ファイラスの意志ははっきりとしていた。ゼドレカは頷く。
「何、一生皆と会えないわけではない。君が力を持てば、いつだって会いに来られるだろう」
「うん」
ファイラスは頷く。ゼドレカは村長、両親、そして数名の村の有力者を見回して言った。
「諸君。私は穏便に物事を解決したいと思っている。私の要求は伝えた通り。当事者もそれで良いという。後は私は少年とともに立ち去るのみなのだが、それでは神帝師団の名声に傷もつこう。であるから、こうして交渉の場を持っている」
「ワシはファイラスを修行に出すのには賛成だ」
村長が言う。村の有力者たちも頷いている。両親だけはうつむいて沈黙している。ゼドレカは腰に手を当てて目を鋭く細めた。
「権力を掲げて子供を取り上げる。そこにどこに正義が在るのか。そう言いたいのはわかる。だが、残念ながら、この子は治癒師、それも無制御級。放っておいてよい人間ではないのだ、国家として」
ゼドレカは有力者の一人を視線で貫く。
「たとえば。他国がこの子を奪おうとするかもしれない」
ゼドレカの言葉に、有力者の男の顔色が変わった。
「他国に奪われるようなことだけはあってはならない。ゆえに、私がこうして直接乗り込んできたという話だ。なぁ、この子の情報は幾らで売れた?」
ゼドレカはテーブルに軽く腰を掛けて腕を組む。その男は滝のような汗をかいていたが、やがて血走った目を上げた。周囲の村人が異変を感じて立ち上がる。
「下がっていろ」
ゼドレカはそのままの姿勢で村人たちを下がらせた。ファイラスは素早く両親の手を引いてゼドレカの背後に身を隠す。
「良い判断だ、少年」
ゼドレカの赤金髪がふわりと浮いた。そう思った瞬間、ゼドレカの姿は男の前に現れていた。胸ぐらを掴み上げ、そのまま片手で投げ飛ばす。部屋の壁に激突するのと同時に、ゼドレカの膝が男の鳩尾に突き刺さる。
「ゼドレカ様、何を……」
村長が震える声で訊いた。ゼドレカはゆっくりと剣を抜く。
「危ないぞ」
ゼドレカの右手が動く。何かが叩き落されて地面をのたうった。握りこぶし大ほどもある蛭のようなものだった。いや、それは舌だった。男の舌がちぎれて飛んできたのだ。男は目玉や歯、指、しまいには臓物をも次々と分離させてゼドレカや村人を襲った。
だが、その全てはゼドレカによって迎撃された。身体の殆どを失った男はそのまま絶命していた。
「まったく。アイレスはやることがえげつない」
ゼドレカは顔や鎧に付着した肉片を払い落としながら肩を竦める。
「私の到着が一日遅ければ、ファイラスは連れ去られ、この村は滅んでいただろう」
「そんな……」
「この地の安全のためにも、ファイラスは我々が保護したほうが良い。わかっただろう」
「僕、ゼドレカ様と一緒に行く。だからお父さん、お母さん」
ファイラスはそう告げると、ゼドレカの元へ駆け寄った。
ファイラスたちはその日のうちに帝都へ向かった。
しかし村は、その数日後にひっそりと消滅した。
コメント