怒りと無力感に苛まれながら、水桶を手に建物に戻ったファイラスは、ベッドの上で震えているケーナを発見する。ケーナは怯えたような顔でファイラスを見る。
「あの人たちの声、聞いたことがある。ここから乱暴に人を連れ出す人たち」
「頻繁に来るのか」
「そうでもない。思い出した頃にふらっと来ては、人をさらっていく」
帰ってきた人がいるかどうかは知らない、と、ケーナは付け足す。
「ここにいる人たちがいなくなっても、誰も気にしないんだ、きっと。そもそも、気付かないと思う」
「かもしれないな」
取り繕っても仕方ないと、ファイラスは曖昧に肯定する。
「どこに連れて行ってるの? 何してるの?」
「わからない」
ファイラスは答えを濁す。
「俺は今日はじめてあんな光景を見た。あとでクォーテル聖司祭にお訊きしようと思うが」
タオルを絞ってケーナに手渡す。ケーナは黙って受け取り、いつものように顔や首を拭いた。
「きっとみんなひどい目に遭ってる。あたしも連れて行かれるのかな」
「それはさせない」
「させないって言うけど、どうやって?」
ケーナの切実な問いかけに、ファイラスは答えを見失う。
「ケーナの身柄は、最高権力者であるクォーテル聖司祭から、俺が直接預かっている。誰もそれを反故にはできない」
「それも永遠にというわけにはいかない、でしょ」
「ニ年ある。ニ年のうちに君を癒せれば、君は自由の身になる」
ファイラスの言葉に、ケーナは素直には喜ばなかった。
「自由の身になんてなったって、どうしたらいいの、今更、この身体で」
「身体の問題はどうにでもする。心配するな。そうだな、ニ年経って治っていたら――」
「ファイラスのお嫁さんになる?」
「それはまた最悪の選択肢だな」
ファイラスは生真面目に答え、ケーナは乾いた声で笑った。
「ファイラス、カタブツ過ぎるからね。疲れちゃうかもね」
「なんとでも言え」
ファイラスはタオルを受け取って、今度は持ってきていたカバンから保存食の類を取り出した。
「あ、漬物嫌い」
「贅沢言うなよ」
瓶詰めの酢漬けを見てケーナは口を尖らせる。ファイラスは構わずそれを木皿に一つ乗せた。
「一個で許す」
「うぇぇ」
ケーナは渋々鼻をつまんでそれを口に入れた。そしてロクに咀嚼もせずに飲み込んだ。
「食べたので、お肉の順番です」
「なんとなく釈然と――」
ファイラスは言いかけて口を噤む。
「なに? どうしたの?」
狼狽えるケーナを抱き上げて、ファイラスは扉のところまで連れて行く。扉を開けた瞬間に、部屋の中心部から得体の知れない微温い風が吹き出した。
「な、なにこれ!」
「ちょっと待ってろ」
ケーナの動揺を他所に、ファイラスはカバンの脇に置かれていた護身用の短剣を抜いた。そうしている内に部屋の中の魔力密度がどんどん上がっていく。およそ感じたことのない魔力の濃さに、ファイラスは眉根を寄せる。
ケーナが悲鳴混じりに訴える。
「に、逃げよう?」
「そうもいかないようだぞ」
ファイラスは開いた扉の方を顎で示す。その扉の向こうには――ファイラスたちがいた。まるで磨き抜かれた鏡があるかのように、だ。
「閉じ込められた……!?」
「そういうことらしい」
ファイラスは愛用の長剣を持ってこなかったことを悔やむ。護身用の短剣では、いささか心許ない。
部屋の中央には黒い蛇のようなものが無数に発生していた。それらがうねうねと好き勝手に動いている。どこから攻めれば良いのか、まるで見当がつかない。そうこうしているうちに蛇たちはわらわらと積み上がっていき、やがては天井にまで届くほどになった。
「何者だ!」
ムダとは思いつつ、ファイラスは呼びかける。魔導師か何かの使い魔ではないかと考えたのだ。
だが、案の定、蛇の群れは答えない。それはケーナに大きな頭の一つを伸ばした。それはまるでケーナを観察しているかのようだった。二匹、三匹とケーナに向かう蛇が増えていく。
「近付くな!」
ファイラスが短剣を振るおうとしたその瞬間に、蛇の群れは忽然と消えた。部屋は何事もなかったかのような平静さだ。
「……なんだったんだ?」
ファイラスはケーナを助け起こすと、再びベッドに移動させた。ケーナの表情が暗い。
「心配するな」
「あんまり意味ない励ましだね」
「ないよりマシだろ」
ファイラスはそう言って短剣をベルトに挿した。
使い魔にしては目的が不明過ぎたし、異形にしてはなんか妙だった――。ファイラスは呻く。
「すごい魔力だったね」
「わかったのか?」
ファイラスは少し驚く。魔法の才能がなければ、魔力密度には気付けないのだ。ケーナは「むわーっとした空気がぐわーっと絡んでくる感じがした」と表現する。ファイラスは「ふむ」と頷く。
「君のは魔力の関係する病気らしいからな。もしかして、ケーナのその才能が影響しているのかもしれない」
「才能って?」
「魔法使いの才能」
「え? あたし、魔法使えるの?」
「訓練すればな」
と、答えて、ファイラスは腕を組んだ。
「もうすでに使っているかもしれない」
「自覚ないけど……」
「魔法の使い始めはそんなものだ。あとでその辺を調べてみよう」
その時、再びガラガラと馬車の音が聞こえてきた。ケーナが少し怯えた表情を見せる。
「また誰か来たよ?」
「今度は多分、俺の知り合いだ」
ファイラスは扉が正常化しているのを確認してから、部屋を出た。
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