魔神――シャリーの言葉にファイラスは目を見開く。
「魔神……というと、創世の神話に出てくる、あの?」
「そう、そのうちの一柱。私もかつて魔神と戦ったことがあるけど、人間だけでは到底勝ち目なんてなかった」
「それ、初耳です。それに人間だけでは……って?」
「魔神サブラス、懐かしい話よ」
シャリーは後半の問いには答えなかった。ファイラスはそれ以上追及してはいけない気がして、敢えて訊き直すことはしなかった。
「懐かしいって、何年か前ですよね」
「ううん、十年以上前よ」
シャリーはそう言うと、また難しい顔をした。
「サブラス程度ならまだ良いのかもしれない」
「不吉なこと言わないでくださいよ」
「実際問題――」
シャリーは顎に手をやって考え込む。
「お風呂の間に一通り診察もしてみたけど、身体的には異常は何一つない。そもそも五年間もあの発熱が続いて生きていることが信じられない。そしてあの病は魔力による影響を強く受けていることは確かっぽい。そしてあなたはもちろん、クォーテル聖司祭ですら恐らく何の手がかりも得られてない」
「だと思います」
ファイラスは唸る。
「では、どうすれば」
「どうする、というより、どうなる、を考えなきゃダメだと思う。魔神の呪いの発動。それはね、魔神が顕現するための準備段階なのよ」
「……ケーナが、魔神になる……と?」
ファイラスの声が乾く。シャリーは曖昧に頷いた。
「確証はない。だけど、私は一度体験してるの。魔神サブラスもまた、私の仲間への呪いを経て、顕現した。だから、このままあなたが治療を続けると、何らかの魔神が顕現することになる。おそらく」
「そんな」
「だから、今のうちに」
「できません」
ファイラスは首を振る。
「彼女は俺の患者だ。どうあっても――」
「そう言うと思ったわ。でも、私はゼドレカ伯爵にはこの旨をお伝えする」
「それは……」
「ファイラス」
シャリーは鋭い声で呼びかける。
「これはあなた一人の問題じゃない。あなた一人で解決できる問題でもない。魔神が顕現してしまえば、何百、何千、或いはこの帝都が消し飛ばされるかもしれない。魔神というのは、あなたが思う以上に強大な存在なの」
「しかし」
「呪いを受けたあの子がなぜ、こんなところに五年間も幽閉されていたのか。そしてなぜ今になってあなたが治療係に任ぜられたのか。全てが魔神による誘導であるとも言えるけど、必ずその手先になっている者がいる。当人の思惑がどうであろうとね。もしかしてあなたもそうかもしれない。私も、かもしれない」
シャリーは険しい表情を崩さない。ファイラスは半ば硬直した肩や首を気にしながらも、身動きできなかった。
「ゼドレカ伯爵に後ろ盾をお願いして、うちのギルドでも調査はしてみる。どんな妨害があるかわからないからね」
「その結果によっては」
「ケーナを処分することになる」
「それはさせない」
「事と次第によっては、あなたもまた対象になるわ。神帝が動く可能性もある。そうなったらどうあっても終わりよ」
シャリーはファイラスの右肩を叩いて小さく言った。
「ごめん」
「謝る必要は」
「あなたは今まで通り、あの子に接して。たぶん、そうしなかったら私たちは後悔する」
「呪いを解く手段はないのですか、シャリー」
「ない――」
シャリーは断定しかけて口ごもり、首を振った。
「いや、ある」
「それは!?」
「魔神を懐柔する。論理的には可能というレベルの話だから、実際にできるとは思えないけど。魔神はとても高い知能を持っている。話ができない相手じゃないのよ」
「魔神を懐柔……!?」
「そう」
シャリーは目を閉じる。そしてどさりと雑草の上に座った。
「もし、もしね。何の魔神かはわからないけど、その魔神が人間によって恣意的に目覚めさせられようとしているのなら、それは何らかの契約――対価を用いた何かによって支配されているはず」
「それは、確かな話ですか」
「私の経験と、この十数年でかき集めた情報からの推測。だから確かだとは言えない」
しかし、そうだとしたら――ファイラスは眉根を寄せる。可能性があるとすれば、バレス高司祭、そしてクォーテル聖司祭のどちらかだ。バレス高司祭はこの建物から病人を拉致して何かに利用しているようだし、ケーナの状況をある程度把握していた。それは前々からマークしていたということに他ならないとファイラスは考える。そして、クォーテル聖司祭はファイラスをケーナの治療係に任じた当人だ。何も知らないことはないはずだ。
「あ、ファイラス。クォーテル聖司祭やバレス高司祭には、あなたは何も知らぬ体でいて」
「直接問い詰めたほうが早いのでは」
「急いては事を仕損じる。あなたはケーナを守ることだけを考えて。調査は私たちがするから、辛いとは思うけどぐっと我慢して」
「……ありがとうございます」
ファイラスは噛み締めるように礼を言った。
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