タナさんはベッドの真ん中まで移動すると、俺に背を向けて帯を外した。そしてするりと肩をはだけさせる。頼りないランプの炎が、嫋やかにタナさんの白い背中に影を落とす。外はもうすっかり暗い。月すらないのではないかと言うほどに、小さな嵌め込みガラスは闇を照り返していた。
「タナさん、一応言っておくけど、俺だって」
「男だよ」
タナさんは俺の言葉を盗んだ。俺は何も言えなくなる。
「あんたは男。大事な、アタシにとって世界一大切な男さ」
「俺はこの忌々しい腰痛を、今初めて本気で恨んでる」
「それは本末転倒さね、エリさん」
タナさんはゆっくり俺を振り返った。胸がドレスからこぼれ出そうになっている。揺蕩う灯りに照らされた、その全てが――あまりにも美しすぎた。俺は目をそらすこともできず、そらそうとさえできず。
「腰が痛くないあんたになんか、アタシは惚れなかったと思うよ」
「それは……」
「あんたがあの町で、暴漢どもをバッタバッタと薙ぎ倒していたら、その場で礼を言って、はいさよならだったかもしれないよ」
「……だったら腰痛には感謝しろって?」
「それもこれも、運命。縁というものの力だよ、エリさん。エリさんもわかってるじゃないか。過去の何か一つが欠けても、現在には至らないんだってことをさ。それは罪も然り、腰痛も然り、さ」
そしてタナさんはうつ伏せになった。白い背中がますます眩しかった。
俺もその広いベッドに上がり、タナさんの背中に触れる。やはり石……いや、鋼のように硬い。どころか、あらゆる箇所が熱を持っていた。
「タナさん、熱がある」
「だろうね」
こんなので今まで平気な顔をしてたのか? まったくもって信じられない。
「エリさん、温泉だけは絶対入るよ、アタシ。あんたと一緒に入りたい」
「……わかった」
色々言いたいことはあったが、黙っておくことにした。きっと俺が言うまでもなく、タナさんはわかっている。
「ねぇ、エリさん。変なこと訊いていいかい?」
「ん?」
「アタシの身体、どう思った?」
「美しいと思った」
「はは……美しい、か」
タナさんの声に力がない。俺は黙ってタナさんの背中をさする。
「ああ、エリさん。優しいねぇ……」
「タナさん、大丈夫なのか? その、呪いの返しとか、そういうのは……」
「わからない」
タナさんは静かに言った。
「でも、あんたが、こうして優しくしてくれれば、多分大丈夫さ」
「……わかった」
俺は頷く。タナさんに何があろうと、俺は――いや、俺に何ができる?
「言っただろ、エリさん。あんたがいてくれるだけで、アタシは強く在れるって。それは何も、あの時だけの話じゃないのさ」
俺の言葉を先回りして、タナさんはそう言った。俺はタナさんの背中に両手を当てる。揉むとかそういう次元の硬さではなかったからだ。
「タナさん、どうして弱音を吐かないんだ?」
「買い被り過ぎさね。アタシだって弱音くらい吐くよ」
「でも、だったら、こんな――」
「これはね、特別さ。それにユラシアの呪いを引き受けたことについてはさ、アタシはこれっぽっちも後悔してないよ、エリさん」
俺はただタナさんの背中をさするだけだ。あまりの発熱に、俺の方まで熱くなってくる。
「アタシは、あんたたちを護れたことを誇りに思っている。ユラシアを安らかに逝かせてやれたことにもね。初めて他人の役に立てた。こんなアタシでも、誰かを助けられるんだ――そう思って、今は胸がいっぱいなのさ」
「でも、それでこんな」
「あの時、アタシはアタシの出来ることをした。これ以上ないくらい、やれることをやれた。こんなに嬉しいことはない。違うかい?」
圧倒的な、そして非の打ち所のない善意だと、俺は思った。だが――。
「タナさん、俺、自己犠牲は認めたくない」
「ごめんね、エリさん」
タナさんは小さい声でそう言った。聞き逃してしまいそうなほどの、小さな声だった。
「アタシは、でも、あんたがいてくれたから、こんな事ができたんだ」
「いや、タナさんならあんなのに遭遇したら、俺なんかいなくたって何かしたよ」
「買い被り過ぎさね。アタシは別に、正義の味方なんかじゃない」
タナさんは身体を起こして、俺を振り返り、そして両手で俺の頬を挟んだ。
「アタシはただ、自分の生き方を肯定したいだけ、なのさ」
「タナさん」
「なんだい?」
俺はタナさんを抱きしめた。そして、唇を奪う。タナさんは一切の抵抗をしなかった。タナさんの、熱に火照る呼吸。それが俺の意識すら侵していく。
「はは、エリさん。素敵だよ……」
「どうしようもなくキスしたくなった」
「いつでもどうぞ」
タナさんは少し上気した顔で笑った。
「ねえ、エリさん。アタシの正義とあんたの正義が、もし、もしね、相容れないものになったら、どうする?」
「そうだなぁ」
そういうことだってこの先出てこないとも限らない。正義とやらは、その時その時で簡単に色を変える。だが――。
悩み始めようとしたその瞬間に、俺の中で澄んだ音が響いた。
「タナさん」
「うん?」
「簡単過ぎる問題だよ、それ」
「えっ……?」
タナさんが目を丸くする。珍しい表情を見た気がした。
「俺にとっての正義は、常にタナさんと共にあることだよ」
「ええっ……?」
「そんなに驚くなよ」
苦笑せざるを得ない、まったくもって。俺はタナさんを再び抱きしめる。抱きしめずにはいられない。
「あんたさ、本当にいい男だよ」
「顔以外は、か?」
「ふふ」
タナさんは肯定も否定もしなかった。タナさんは囁く。
「もう一つ訊いていいかい?」
「もちろんだ」
「……いや、やっぱりいい」
タナさんは首を振った。俺はタナさんを抱く腕に、少しだけ力を入れる。タナさんの熱を、少しでも引き受けたいという思いもあった。
「追求しないのも、あんたの素敵なところ。アタシの大好きなところ」
「そういうのは全部まとめて、黒幕をぶっ倒してからの話かなって」
「――魔女エリザ」
タナさんはその名前を噛みしめるようにして口にした。俺は頷く。クァドラの発言から、黒幕がはっきりしてしまったのだ。よりにもよって、史上最大の虐殺者、エリザ・レヴァティン女公爵であると。
「でもね、エリさん」
タナさんの声が少しだけ軽くなった。
「そのおかげなのかどうかはわからないけどさ。今のアタシには、心の底からの望みが一つあるのさ」
「俺に叶えられるものかい?」
「あんたにしか、できないこと」
タナさんはそう言ってまた俺にキスをした。
「でもこれはね、願掛けさ」
「願掛け……?」
「ああ、違うよ。魔女のまじないの類じゃない。人が誰しも普通にやる、神様とやらへのお願い事さ」
「それならよかった」
俺が頷くと、タナさんは小さく笑った。
「魔女が神様にお願いするだなんて、滑稽の極みだろう?」
「まさか」
俺は首を振る。
「神様ってのがどんなやつかは知らないけど、魔女になるまで助けようともしなかったくせに、魔女の祈りの一つも聞けないとか抜かしやがるなら、俺が一発ぶん殴ってきてやるよ」
「頼もしいねぇ!」
タナさんは一度身体を離し、そして再び抱きついてきた。正直に言うと、俺の心臓は爆発しそうなほど激しく拍動していた。年柄もなく、のぼせあがっているのだと、俺はようやく気付く。
「ともかくさ、アタシは神様に祈った。多分、一生で一度きりのお願いさ」
「それはどんな?」
「願掛けってのは、アタシと神様の間の秘密だよ」
「知りたいんだけど」
「だめ」
タナさんは俺の唇に人差し指を当ててくる。目を細めたタナさんのその表情は、いたずらを思いついた子どものそれにも見えた。
「でも、その時が来たらわかるよ。その時はさ、一緒に神様とやらに感謝しようよ、エリさん」
「わかった」
俺はタナさんと見つめ合う。ランプの炎はまだ揺れている。
「エリさん。愛しすぎて、ごめん」
「なんだい、藪から棒に。なんで謝るんだ?」
「もしかしたらこの気持は、愛なんかじゃないかもしれない。アタシはずっとそれを恐れているんだ」
「奇遇だね、タナさん」
俺はそう言ってベッドの端に移動した。タナさんもついてくる。
「俺にも、わからない。この気持ちが本当に愛なのか。タナさんを愛してるってことなのか。本当のところは、俺にもわからないんだ」
「アタシたち、似た者同士なんだね、やっぱり」
「ただの憐れみ合う関係なのかもしれないな」
「それでもいい」
タナさんはベッドの端に腰掛けて、遠くを見るような目をした。
「エリさん、それでもいい、よね?」
「ああ。それで、いい」
俺はタナさんの美しい髪を撫でる。
「タナさん、気障なこと言っていい?」
「め、珍しいね、そういうこと言うの」
「かもね」
俺は頷いて、そしてタナさんを立たせた。
「俺たちのこの気持ちが愛だって確かめるために、エリザは蘇ったんじゃないかな」
「はは!」
タナさんは笑った。
「あははははは!」
豪快に。
「そりゃいい。アタシたちの愛のために、エリザは甚大な代償を捧げてくれたっていうわけだ」
「それだと罪に塗れた愛になっちまうかな?」
「お似合いさ、アタシたちには」
タナさんはそう言って、俺の手を引いて扉へと導いた。
「温泉に行こうよ、エリさん。裸の付き合いといこうじゃないのさ」
「喜んで」
俺はタナさんと共に、ゆっくりと浴場へと向かったのだった。
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