#05-03: 月が、綺麗だね。

腰痛剣士と肩凝り魔女・本文

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 浴場への途中で、ウェラを背負ったリヴィとすれ違った。

「ウェラってば、お風呂で限界きてもうてな。浴槽でうつらうつらし始めたもんやから、慌てて引き上げてきた」
「おつかれ、リヴィ」
「おおきに、パパ」

 そう言いつつ、リヴィは俺たちの事をニヤニヤと見つめている。

「なぁ、パパ。ママの服、めっちゃ乱れてるやん? 何してたん?」
「あのなぁ、リヴィ――」
「リヴィ」

 タナさんが割り込んでくる。

「後でじっくり聞かせてあげようかねぇ?」
「え? えっと、あの……?」

 露骨に戸惑うリヴィ。その背中では、ウェラがヨダレを垂らしながら眠っている。

「どこまで話そうかねぇ」
「ええっと、あの、ママ?」
「なかなか濃密な時間だったよ、リヴィ」
「ええっとあの、あのっ、や、やっぱりええわ! ウチ、めっちゃ恥ずかしくなってきた! そこまで言われたら、めちゃめちゃ想像してまうやろ!」

 そう言うリヴィの顔は真っ赤だ。どうやら良からぬ想像をしているらしい。

「う、う、ウチら、ソファで寝るからな、パパとママはベッド使つこてや!」

 そう言い捨てると、リヴィは脱兎のごとく逃げ出した。

「タナさん、もう」
「あはは! あの子には刺激が強かったかねぇ」

 タナさんはまた歩き始める。しかしやっぱり、足取りが覚束おぼつかない。俺は隣に並んで腕を組んだ。

「リヴィは十六だっけ。確かに興味がある年頃だよな」
「そうだねぇ。いい時代を過ごさせてやりたいよ」

 タナさんの声のテンションが少し下がった。もちろん、タナさんが何を思い起こしたのかくらい、俺にだってわかる。タナさんは静かに続ける。

「あの子が強い子でよかったと思うよ」
「タナさんのおかげもあるんじゃないか?」
「そんなことはないんだよ、エリさん」

 タナさんは俺に少しだけ体重を預けてきた。

「人間の強さなんて、生まれてから死ぬまで変わりはしないのさ。強い子、弱い子、大別すれば人間どちらかに属してて、一生そこから変わることはないのさ」
「でも」
「弱さは決して罪なんかじゃないよ、エリさん。そして強さもすなわち美徳とはいえない」
「それはわかる」
「だろう? だから、他人の心を強くしてやろうとか、そういうのって、アタシは傲慢な親切心みたいなもんだと思っているよ」

 タナさんの静かな言葉が、少しだけ俺の心に刺さる。タナさんはそうだとわかってそう言っている。そうとわかっていながらも、そう言っているのだ。

「リヴィが強くなったように見えるのだとしたら、それはあの子自身の力だよ。アタシは何もしてないし、そもそも、何もできない。腰の悪いあんたと同じさ」
「タナさん……」
「だけどね、エリさん」

 浴場の扉を開く。脱衣所独特の空気が漂ってくる。この香りはヒノキだろう。

「だからといって、アタシたちがあの子たちにとって無価値だとは思わない。アタシが自分の足で立つためにエリさんを必要とするように、あの子たちの成長のためにはアタシたちが必要なのさ」
「……何もできなくても?」
「そうさ」

 タナさんは手早く服を脱いだ。たちまちその裸身が薄明かりの下にさらされる。タナさんの裸体は、やはりというか、当然というか、美しかった。これ以上の美というものがあるというのなら、是が非でも拝見したいものだというくらいに。

 裸のタナさんが、俺の服に手をかける。俺は「いやいや」とやんわり断って、自分で脱いだ。タナさんは俺の背中に触れながら、囁く。
 
「エリザを調伏ちょうぶくして、少しはマシな世の中にすることが、今のアタシたちの義務つとめさね」
「そのご褒美の前払いかな、今って」
「ご褒美に値するかい?」
「そりゃもう十分に」

 俺たちはそうして互いに背中を流しあった。ちなみに浴場には他の誰の姿もない。それもそうだ。こんな真夜中に風呂に入る客などはそうはいないだろう。

「今日のアレで家を失った人も大勢いるだろうねぇ」

 石造りの巨大な浴槽に浸かりながら、タナさんは呟いた。巨大な浴場は露天風呂だ。空には無数の星が瞬いていて、浴場の壁からはヒノキの良い香りが漂ってくる。この露天風呂の設計者は、よほど温泉が好きらしい。よくわかっている。

「それは俺たちの手に余るよ、タナさん」
「そうだね。確かにアタシたちの仕事じゃない。役人や異端審問官の仕事だと思う」
「ああ」

 彼らには彼らの役割があるし、第一にあの初老の役人がいれば、この都市は大丈夫な気がする。そういえば、俺は彼の名前を知らない。なんとなく既視感はあるのだが――。

「エリさん」
「うん?」
「月が、綺麗だねぇ」
「え?」

 月なんてどこにも見えない。俺は空を隅々まで観察して、そしてタナさんを見た。タナさんは笑いを噛み殺している。

「愛してるっていう意味なんだってさ」
「何がどうしてそうなるんだ」

 俺は苦笑せざるを得ない。タナさんも肩をすくめている。

「なぁ、タナさん」
「なんだい?」
「あの時さ、俺たちが出会った時。もし、魔女狩りに遭わなかったら……どうするつもりだった?」
「ははは、ついに訊かれたねぇ」

 タナさんは濡れた手で髪の毛を撫で付ける。そして、その頭を俺の肩に乗せた。

にしたかった」

 短く吐き出されたその言葉に、俺は胸が詰まる。

「いい加減うんざりしてた。と言われて、それにすがって、どんな惨めな思いをしてもひたすら耐えて、泥水すすって歯を食いしばって生きてきたけど。だけど、もうね、疲れちまってたんだ。何も得られない人生に。負債を払い続けるだけの人生に。あんな思いをして、ようやっと手に入れた自由は、結局、アタシを助けたりはしてくれなかった。砂漠のど真ん中に、着の身着のままで放り出されたみたいなもんだった」

 あんな思い、か――。俺は沈黙で答える。タナさんは大きく息を吐いた。

「だからね、あの時さ、あんたに助けられなかったら……きっとそのままだっただろうね。足掻いて、結果ダメでしたって。そんな言い訳をしながらさ。でも」
「そこに邪魔が入ったって?」
があんたを遣わしたのさ」
「冗談はよしてくれよ」

 俺はタナさんの肩を抱き寄せる。タナさんはクックッと笑い、言った。

「案外、かもしれないねぇ」
「かもな」

 なるほど、やっぱり。タナさんは気付いているんだ。

 俺はしばし悩んでから、その件については沈黙することを選んだ。タナさんはその黒褐色の瞳で俺をじっと見つめていた。星降る夜空のようなその瞳に、俺は間違いなく魅了されている。

「エリさんもさ」

 視線をそらして、タナさんは言う。

「案外あの時に救われたんじゃない?」
「そうだな」

 俺はタナさんの首に触れる。驚くほど繊細で艷やかな肌だった。

「あんたの死相はまだ消えちゃいない。けど、あの時に比べりゃ百倍はマシさね。残りのおこりは、アタシがどうにかしてやるよ」
「頼もしいね」
「はは」

 タナさんの頬が少し赤い。その顔に、俺の鼓動が少し早まる。

「エリさん」
「うん?」
「あんたはとにかくさ、アタシを救っちまったんだよ。責任はとっておくれよ?」
「わかってますよっと」

 俺はタナさんを力いっぱい抱き寄せた。ちょっとだけ刺さるような痛みが腰にはしったが、どうということはない。

「責任とってもらえるようになるまでは、アタシがなんとかするからさ。敵はエリザだけじゃないさ」
「他にも魔女が?」
「クァドラなんて、の中ではまだまだ小物さ」

 タナさんの言葉に戦慄する俺。アレ以上のものがいるのかと思うだけで、背筋が冷たくなる。

「もしかしたら、アタシだってその魔女になっちまう可能性は否定できないんだ」
「タナさんが?」
「ま、アタシは今でも魔女かもしれない。あんたという人間の魂にしているのだからねぇ」
「だけじゃないだろ?」
「え?」
「ウェラとリヴィの未来にも執着してる」

 俺が言うと、タナさんはしばらく硬直した。その目は俺をぼんやりと見つめている。

「そう、か。そうだねぇ」
「だからね、タナさん。タナさんがもし魔女にしたとしてもさ、タナさんは絶対ににはならないさ」
「ありがとう、エリさん」

 タナさんは静かに言って、今度は俺の両手をとった。

「あんたのこの両手に染み付いた血の臭いも、このお湯で洗い流せるといいのにねぇ」
「タナさん……」

 俺が言葉を失っていると、タナさんは少し意地悪そうな笑みを見せた。

「アタシの罪の半分と、あんたの罪の半分。どっちが重たいと思う?」
「割に合ってない分は、俺が一生掛けて補填するさ」
「おやおや」

 タナさんはおて笑う。俺の言葉の真意は伝わったかもしれない。でもは、もう少しとっておこうと決めた。

 タナさんはゆっくりと立ち上がった。そして俺を見下ろして言った。

「あんたは、今のあんたでいい。変わらないでおくれ」
「……努力するよ」

 まいったねと、俺は頭を掻き、お湯を顔に叩きつけた。

「努力する、か。いいねぇ、エリさん。簡単にと言わないところが、エリさんらしいよ。で、さ。もう一つお願いがあるのだけど」
「なんだ?」

 俺も立ち上がり、タナさんと共に風呂から出た。

「部屋に戻ったら、さっきの続きをお願いできるかい?」

 俺は意図的にそう答えた。タナさんは案の定、小さく吹き出した。

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