わかりましたと、ケーナは折れる。生き残った脱走兵たちは残らず縛り上げられ、地面に座らされている。輸送しようにも、馬車は負傷した神殿騎士たちで満員だ。脱走兵たちは歩かせるしかない。しかし、歩けないほどの負傷者もいる。
ファイラスと神殿騎士たちは侃々諤々と議論を交わすも、答えは出そうにない。そうこうしているうちにも時間だけはどんどん過ぎていく。昼間の太陽は確実に傾き始めている。一刻も早く最前線に到着しなければならないのに――ケーナは下草を蹴る。
――こっそり殺しちゃえば?
ケーナの頭の中に声が響く。そうだ、歩けない者を殺してしまえば出発は早まるに違いない。ケーナはうっかりその声に同意しかけて、慌てた様子で首を振った。
ここ最近になって、頭の中でやたらと頻繁に何かの声が響く。どんな声かというと表現できないが、とにかく明らかに意志を持った言葉が聞こえるのだ。その声はケーナを煽動し、行動させたがる。そしてその声は、戦いの時には的確な助言をもたらした。敵がどこから来るか、どう回避すればいいか、どこに剣を突き刺せば良いのか――そういった一切全てを声がもたらしていた。おかげで死セル兵士との戦いでも、この脱走兵たちとの戦いでも、怪我一つせずに生き延びた。対人の実戦経験などなかったのにも関わらず、だ。
この声がなぜ今になって聞こえてきたのかはわからない。誰が囁いているのかもわからない。
――どうして躊躇うの? 君はもう人を殺してるじゃないか。
あの霧の中、死霊術師の所在をケーナに教えたのはこの声だ。そして見つかることはないと高を括っていた死霊術師を仕留めさせたのも、この声だ。
先程の戦闘で尖爆を使ったが、その魔法をもたらしたのもこの声だった。ケーナはその行動指示に従ったに過ぎない――一切の迷いなく。
人を殺した罪悪感がないわけではない。
いや? ないのかもしれない?
ケーナは右の手のひらを見つめる。
――躊躇の必要はないでしょ。敵は殺すべきだ。まして足手まといだし、生かしておいたらいつ寝首をかかれるかわからないし。みんなのためにも殺すべきだ。君がちゃっちゃとやれば誰も止めないって。ファイラスだけだよ、止めようとするのは。
「――うるさい」
ケーナは低い声を発してその声を振り払う。それきり声は黙った。
「ファイラス様、連れて行くのは不可能です。置いていきましょう」
「しかし、ケーナ。彼らの傷では」
「縄は解きます。これが最大限の譲歩です」
ケーナの毅然とした言葉に、神殿騎士たちも賛同の意志を示す。
「なぁ、あんた」
比較的軽傷の脱走兵がケーナを見上げて声をかける。
「北に行くんだろ。ディケンズの反乱の」
「そうよ」
「やめておけ」
「そうはいかないでしょ」
ケーナは首を振る。
「ところで、最前線はどんなありさまなの? 仮にも帝国騎士が逃げてくるくらいだから相当だろうと思うけど」
「ありゃこの世じゃねぇ。地獄だ」
「具体的に」
ケーナは訊いたが、脱走兵は黙ってしまった。よく見ると小刻みに震えている。兵士の言葉を継いだのが、ファイラスに敗れた騎士だった。
「見たこともない化け物で溢れている。異形って言うんだっけな」
「異形、だと?」
ファイラスの険しい声が響く。先程まで聞こえていた蝉や飛蝗の声がなくなっていた。
「召喚師がいるのか。あるいは、大魔導か」
「どっちにしても、俺たち人間が奴らを倒すなんて不可能だ。悪いことは言わねぇ。このまま帰れ」
「できない相談――」
ファイラスは異常に気付く。負傷した脱走兵たちが一斉に呻き出したのだ。それはやがて、無傷のもの、そして隊長格の騎士にまで及ぶ。
「どうした」
「ファイラス様」
ケーナが剣を抜いた。ファイラスも仄白く光る剣を抜いて顔を歪める。
「魔力……なんていう濃度だ」
急激に高まってきた魔力。それは兵士たちを中心に広がっていた。彼らの周囲の植物が、明らかに不自然に枯れ始めていた。迷い込んできた蝶が、空中でふわりと溶ける。
「ファイラス様、彼らは放っておいて逃げましょう」
「……だな」
ファイラスは瞬時にリスクを計算し、脱走兵たちを見捨てる決断をした。今は四の五の言っていられる状況ではない――ファイラスは自身の正義感をかなぐり捨てる。
「全員、この場を離れるぞ。まっすぐ北に向かう」
これ……あなたの仕業?
ケーナは試みに自分に尋ねてみる。
――違うよ?
どうだか。
ケーナは変異し始めた脱走兵たちを見下ろし、そして馬に飛び乗った。
脱走兵たちは次々と破裂し、溶け、融合した。
『があああああああ……!』
脱走兵たちは見る間に巨大な肉塊と化した。そこに顔が一つ浮かび上がってくる。隊長格の騎士のそれだった。
『ごぼおおおおおおおおぉぉぉぉぉ!』
知性を喪失した彼らが、動き始める。
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