晩夏の夜風が切れるほどに冷たい。甲冑姿の青年――グラヴァードの白い前髪が、いいように弄ばれる。大きな月が低い位置に浮かんでいた。ここはディケンズ辺境伯の出城の一つ。いわば最前線に位置する要塞である。
この広大な領地の主たるディケンズ辺境伯は、もはや自我を持たぬ人形だった。アイレス魔導皇国の魔導師たちによって、実に巧妙に操られてしまっていた。いまや権力欲の権化であり、同時に猜疑心の塊となっていた。彼を止められたはずの側近たちの多くは、いまや城壁の向こうで討伐軍の亡骸ともどもに晒されて腐り果てている。いずれ不死怪物として、防衛のために再利用されることだろう。
「悪趣味だな。君はそう思わないか?」
バルコニーに出ていたグラヴァードは、その青い目を細める。無人だったはずの室内にわずかな空気の揺らぎが生じていた。
「私の趣味ではない」
掠れた男の声が応じる。グラヴァードはゆっくりと振り返る。剣に手はかけていない。室内には暗黒色の重甲冑を装備した男が立っていた。年の頃は三十前後、癖のある金髪に碧眼の持ち主にして、精悍な面立ちだった。グラヴァードは臆せず室内に戻り、小さな丸テーブルを挟んで男と正対する。
「ワインでも?」
「世界の敵たるグラヴァード卿が、冗談など言うとはな」
「ユーモアには自信がある」
和やかさの欠片もない雰囲気の中、二人は互いの思考を読もうと試みる。
「ところで、エリシェル卿」
グラヴァードはその青い瞳で男を凝視する。
「本来、こんな外国の反乱工作、銀の刃連隊のエリートたる君が出てくるような事案ではない。こんなことが発覚すれば大戦にもなり得る」
「知らぬな。私は国家の忠犬。命令に従うだけだ」
「君は捨て駒だ」
「で、あるとして?」
「君は妖剣テラを知っているだろう」
「で、あるとして?」
エリシェルと呼ばれた男は二度繰り返す。
「君ほどの人材を、どこぞの陰謀ゲームの果てに失うのは惜しい。妖剣テラを俺に渡せ。悪いようにはしない」
「妖剣テラ――いかにも」
エリシェルはゆっくりと腰の刀を抜いた。そして構えると同時に、その刃が変容する。巨大な諸刃の両手剣へと変じていた。白を切り通そうかとも考えたが、そもそもグラヴァードほどの大魔導を相手にして手札を温存することなど不可能だという考えから、妖剣テラを顕現させた。
グラヴァードは「ほう」と物珍しそうに声を発する。エリシェルは剣から放たれる鮮血色の輝きを受けながら吐き捨てるように言う。
「世界の敵、そして虐殺者。お前だけにはこの剣は渡すわけにはいかん」
「散々な言われようだが」
グラヴァードは武器も抜かずに腕を組む。
「確かに、その認識はある意味に於いては正解ではある」
「何十万という無辜の民の命を奪ってきておいて、よくも言う」
「殺人に正義はないさ。どんな理由があったとしても、そこに正義はない」
「懺悔でも始めるつもりか」
エリシェルは無表情に剣を構え直す。打ち込もうにもグラヴァードには隙がなかった。自身も国家有数の超騎士にして大魔導であるエリシェルだったが、それでもグラヴァードの発する気配は異常に思えた。どう攻めたら良いのか、まるでわからないのだ。
「世界はな、理不尽なのだよ。救いたい人間がいる以上、見捨てなければならない人間もいる。全ての人を助けられるならそうしたいが、残念なことに俺は全知全能の神ではない」
「お前のエゴで人の生死を選別したということだろう」
「人はみなそうして生きている。己の力の範囲でな」
「何十万と殺すのも」
「残念ながら、俺は君と同じ無制御だ。人を救う力を持っている。同時に誰かをそのための生贄にする力も。そして救えるとわかっている誰かを、その生贄を思うがゆえに救えないなんてことには、俺は耐えられない。見殺しにはできない」
「そのエゴに従って生贄にされた人間をどう思う」
エリシェルはジリジリと間合いを詰める。グラヴァードは世間話をしているかのように、一見して無警戒な様子だった。だが、エリシェルにはわかる。グラヴァードは全方位に防御態勢を取っている。
「君と同じさ、エリシェル」
「私と同じだと?」
「君が国家の忠犬に徹するのと、さして変わらない。君は殺戮を国家のせいにできる。違うか」
「流す血は私の責任による」
「ははは!」
グラヴァードは笑う。エリシェルは斬りかかれない。
「まさに忠犬の思考」
グラヴァードの瞳の温度が急激に下がる。
「良いだろう。俺は自分を神だのなんだのとは思っていないが、俺は俺の救いたい人間を救う。そのための犠牲は止むを得ないと考えている。俺は一を救うために百を犠牲にしても構わないと考えている。一のために百を見捨てる、それもまた、俺のような無制御に課せられた使命だとな」
「国家主義とは正反対だな」
「だからこそだ」
グラヴァードは腕組みを解いた。
「世界の敵――とは、そういうことだよ、エリシェル卿」
冷たい風が室内に吹き込んだ。
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